本文へスキップ

電話でのお問い合わせはTEL.076−221−1437

〒9200935 石川県金沢市石引2−18−5

波着寺の歴史





創建

 開基は神亀年間(724〜729)。白山を開かれた泰澄大師が福井一乗谷に堂宇を建立。当時
 足羽川が洪水になると御堂まで波が寄せたことから波
寺と呼ばれるようになった。山号は白山 、泰澄山、白流山。白山の本地仏として、十一面観音が御本尊であり波着観音として信仰を集め た。当初は天台宗。福井の資料には開基は養老3年(719)とある。

現在、福井市成願寺酒生地区の方々が「波着寺史跡を                           守る会」を結成して保存に努めておられます

白山信仰

 

  

日本達磨宗

 鎌倉時代になると、日本達磨宗の拠点となる。日本達磨宗は禅宗の一派で大和多武峰を拠点としたが、興福寺の焼き討ちにあい当寺に逃れてきた。懐鑒が波着寺の住職となり、その弟子は後に曹洞宗を開いた道元禅師に従う。永平寺2世(懐奘えじょう)3世(義介)4世(義演)は日本達磨宗出身者であり、初期曹洞宗に影響を与えた。特に徹通義介禅師は、波着寺で修業をしている。永平寺を辞した後、加賀に大乗寺を開いた。当寺には義介禅師に大乗寺を譲った真言僧澄海の位牌があり、また本堂内に大乗寺四十三世、大乗愚禅書の柱板(聨)が有ることから、江戸時代においても曹洞宗との関係があったと思われる。



戦国時代

 戦国大名であった、越前朝倉家の庇護を受ける。1548年朝倉孝景が参詣帰途、急死の記録有 り。1573年朝倉家滅亡、また1574年加賀一向一揆により平泉寺などと共に焼かれ衰退す る。

前田家との関係

 天正年間(1573〜1592)、府中城主となった前田利家公は、波着寺住職安養坊空照に帰依した。金沢入城と共に空照を呼び寄せ、現在の兼六園梅林付近に寺地を与え波着寺を祈祷所とし、宝円寺を菩提所とした。


 

兼六園の波着寺推定地(石川新情報書府より)

 利家公は、加賀一向一揆により衰退していた白山比め神社の再興を空照に命じた。神社蔵の再興 額には、利家公三女で秀吉側室加賀殿のために高野山木食応其上人と空照が書いたとの裏書きが 残る。また石動山天平寺の再興にもあたるなど、深く前田家の帰依を受けた。
 元和5年(1619)三代利常公により現在地に移転。百間四方約一万坪を拝領し、伽藍が立ち 並び門前町が栄えた。今は白山町として地名が残る。元和7年には、金沢城本丸の地鎮祭を執り 行う。江戸時代を通じて能登真言宗の触頭を務めた。明治になり廃仏毀釈等により寺地は縮小し た。